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1990年代はじめ、私はヨーロッパ周遊の旅をしてパリに行きました。
そのとき、ある場所で、黒髪の美少女が私に近づいてきてマクドナルドの空の紙コップを差し出し、悲しげな上目遣いの表情をしました。
あれ?これは何が起きているのだろう?
そう思って少し思考停止し、…もしや、日本では戦後は沢山いたという「こどもの物乞い」では。
と、思いついた時には少女は不機嫌そうに私を見限り、別の観光客に向かって先ほどと同じ仕草と表情をしていました。
その後日本で、フランスに絵画を学ぶため留学していた、という女性と話をしました。
すると、人種差別について彼女は話し、ひどい例として、犬を散歩させている婦人が、有色人種に自分の犬がおしっこをかけているのに知らん顔で澄ましている。相手は怒っているのに。…と言っていました。
日本では、山田詠美さんの小説が人気で、黒人男性との交際が持て囃されていたような頃ですから、ひどいですね、なんて話していました。
今、イタリアに行った友人によれば、黒人住人が一日何もせずぼーっとしているそうです。
それで、どうやって生活しているのか尋ねると、何日かに一回、お金がもらえるから生きていけるのだとか。
小さな子もいるので働いてはどうかと提案すると、普段のぼーっとした様子とはうって変わった激しい調子で、我々の祖先は白人に搾取されたのだ。我々は被害者だから当然の権利だ!とまくしたてるので、働かない親を見て小さな子はどうやって働くことを学ぶんだろうと考えるとかわいそうな気持ちになるよ。…とのことでした。
スリランカからの留学生と話したことがありますが、スリランカは仏教国で、女性の地位も高い、とのことでした。
国によって、本当にいろいろですね。
完全に差別のない国は地球上に歴史的に存在したのですかね。
よく、考えてみないと、情報が統制されていると判断を誤りかねませんね。なぜ情報が統制されるのかよく考えたいですね。
気をつけて断崖を断崖らしく。
野原に見せかけてある断崖も断崖と見抜いて歩を考えたいですね。
書くということは野原を断崖のように歩くことだ。
開高健はそう書きました。
今、書くということが断崖を野原のように見せかける手段になっていませんか。
少年よ荒野を目指せ。
では。
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